【レポート】キックオフイベント第1弾「まちめぐり 焼津・浜通り」

”洪水・高潮・津波に向き合う地域の暮らしの工夫を知る”

ハート防災Jです。2月25日に行われたハート防災キックオフイベント「まちめぐり◆焼津~吉田編」に参加してきました。レポート第一弾は焼津の浜通り。昔から高潮などの自然災害と向き合い、生活に工夫を凝らし、時には神に祈る。この地で暮らし続けてきた人々の地域防災の歴史、取り組みを知る良い機会になりました。

焼津公民館に30人近い参加者が集まり、まずは開会の挨拶。

まちめぐり案内人は、松田民俗研究所代表の松田香代子さん。日本民俗学を専門に、「富士山信仰」や「災害と民俗」に関する調査、研究などで活躍され、先人の教えに精通した方です。

13時15分、まち歩きスタート。最初に向かった先は

荷物を運ぶ運河として利用されていた「堀川」は、浜通りに押し寄せる高潮を逃がす放水路の役割も果たしたそうです。その重要性を、まち歩き後半でより知ることになります。

海抜2.8mの表示がありました。海抜は近隣の海水面から計った陸地の高さです。このエリアでは多くの避難タワーを見かけますが、津波対策には欠かせません。大事なのは、自分が住んでいる地域のことを知ること、どこに逃げるべきかを知っていること。それが分かって行動すれば助かることを、神戸で取材した「人と防災未来センター」で学びました。

漁業関係者が厚く信仰している護心寺(北の弁天さん)。松田さんが、地域との関わりをわかりやすく説明してくれます。

各スポットには、NPO法人「浜の会」の説明表示があります。約300年前に、海上安全、災害除難を祈念し木彫りの座像・弁財天が合祀されたそうです。無事を祈る家族の思いは今も昔も変わりません。

海岸近くには多くの波除け地蔵があったそうですが、焼津をこよなく愛した小泉八雲(明治時代の小説家であり日本民俗学者。ギリシャ出身でその後日本に帰化。著書に英語で著した「怪談」は有名)にちなんだ波除け地蔵もあります。詳しくは、焼津市ホームページの八雲地蔵を。

浜通りには昔から、高潮・高波から住民を守るために、地区ごとに3体の波除け地蔵があったそうですが、堤防の改装のたびに移動して今では4体を残すのみ。現在の堤防ができて高波の心配が無くなった今も、波を避けたい住民の信仰先として受け継がれています。

安泰寺墓地の波除け地蔵。

札の辻の波除け地蔵は改装中につきミイラ状態でした。

青峰山勝景院の波除け地蔵。青峰さんと呼ばれ、海難に会った時に「青いなあ、青いなあ」と叫ぶと助かると伝えられているそうです。今の若い漁師さんが叫ぶとは思いませんが、平成の今もお地蔵さんを引き継ぎ、花を添える、どれだけ堤防が高くなって避難タワーができても、変わらないものがあります。

今回のまちめぐりで特に興味深かったのは、先人たちの暮らしの工夫。玄関前を見ると、道路から1~2段高く建てられている家が数多くあります。

堤防を越えた海水の侵入を防ぐ波除け堰。板まで残ってるところは数少ないそうですが、

「海味工房ぬかや斉藤商店」のご主人が実際に板をはめて説明してくれました。新しい堤防ができる前は、台風が来ると大雨と高波でこの辺一帯が水浸しだったそうです。

港沿いを走るオーシャンロードには海抜6mの表示。えっ、歩き始めで見た海抜表示が2.5mだったから・・・。そう、海岸沿いよりも内陸の方が低いんです。だから、高潮・高波で溢れた海水や暴風雨時の雨水は、海から町に流れ込んでくるのです。

浜通りには水を逃がすための小路が何本も通っていて、海側から陸側に傾斜し、その水は冒頭で紹介した堀川へと流れていきます。土地を知り、土地と生きる、先人の知恵と工夫が今もまだ機能し、町を浸水から守っています。

平成7年に新堤防が完成するまで、明治~平成にかけて焼津を守ってきた石造りの防潮堤を再現。当時の写真と一緒に後世へと語り継いでいます。

浜通りからバスで移動し、八雲地蔵を移設した光心寺へ。

お寺の説明の中に、小泉八雲が書いた、泣いてるお地蔵さんの絵がありました。

奥さんのセツさんに反対されて、修復されることなくそのままの形で、光心寺に移ってきた波除け地蔵。もはや、お地蔵さんのカタチとは言えません。それでもこうやって大事に残して祀られているんです。

自然災害から家族を守るため

暮らしの工夫とお地蔵を祀ることは、別の様で同じもの。二つで一つの様なもの。

今回参加した方々は、何か感じるものがあったようです。こうやって歩いて、見て、知ることで、防災アートのヒントが見つかるかもしれません。

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