24時間365日無料公開で震災当時の姿を ―神戸市【神戸港震災メモリアルパーク】―

ハート防災のJです。神戸にやってきました。震災後に訪れるのは初めて。震災の22日前に産まれた息子が23歳になりましたが、あの朝の衝撃は今でも覚えています。当然ですが、このブログを見ている人の中には、当時まだ産まれていない人もいるんですよね。

静岡から新神戸までは新幹線で2時間ちょっと。目指すは「神戸港震災メモリアルパーク」。被災当時の神戸港を一部保存し、24時間365日無料で公開している屋外見学施設です。

JR元町駅から繁華街を抜け、南へ歩くこと12分、メリケンパークが見えてきました。

公園の中に入り港の方に進むと、左手の港側に「神戸港震災メモリアルパーク」があります。

特に入り口も無く、どこから見るのが正解かもわからぬままに廻りました。(実はこの写真もひと回りしてから存在に気づき、同行のYさんと撮ったものです)

モニュメント(記念碑)は、震災が起きた時間、5時46分を表わしています。そして見えてきたのは・・・

街灯が傾き、コンクリートが砕けたメリケン波止場の一部。

被災した当時の状況を、できるだけそのままの状態で固定して、見える形で残しているそうです。

そうなんです。映像や写真はいっぱいありますが、実際の被災状況を見れるところはほとんどないんです。今回の神戸取材で、数多くの映像、写真を見てきましたが、一番頭に残っている絵はここかもしれません。23年経っても風化しない貴重な存在です

 

この状態がここだけでなく、阪神・淡路地域全体で起きたということ。今の神戸の街からは想像できません。

当時の波止場の様子を見れるコーナー。

神戸港周辺の被害状況を、地図と映像で見ることのできるコーナーもあります。

映像コーナーは、9:00~22:30の間、いつでも何度でも見ることができます。

韓国語、中国語、英語、日本語、4か国語対応。日曜日でしたが、訪れている方の8割以上が外国の方でした。地元の方にとっては、当たり前にそこにある存在なのでしょう。

平成9年7月竣工だから、もう20年以上、ここで震災の惨さを伝え続けてるんですよね。風化しないように。

今の神戸の街には、その欠片すら見つけることができません。その復興ぶりは見事の一言。

メモリアルパークの正面にそびえ立つ「ホテルオークラ」と崩れた岸壁の対比に、人間の凄さと怖さを感じずにはいられませんでした。

忘れたころにやってくる災害。

忘れなければやって来ない、と祈っているように見えた「神戸港震災メモリアルパーク」でした。

 

「災害対策施設」という選択肢 ―浜松市【マブチ工業】― 

震災現場を目にして、“自分たちにできること”の先にあったもの

ハート防災のJです。災害対策施設って聞いたことありますか。ネットで調べても、定義らしきものはなく・・・。

今回は、自社で災害対策に取り組まれ、今年1月に浜松市から「企業の社会貢献(CSR)活動表彰」の優秀賞を受賞された浜松市の工務店「マブチ工業」さんに話を伺いました。

馬渕社長です。以前一度取材させていただいたことがあり、一見強面ですが、とても気さくで優しく勉強熱心で、実行力の塊のような方です。その行動力は、2度の震災の時にも・・・。

阪神淡路大震災の1か月後、ゼネコン仲間の陣中見舞いに訪れた際に、悲惨な街の状況を目の当たりにした馬渕社長。ただ、その時は何もできなかったそうです。そして、東日本大震災の時は、バイク仲間のSOSを受け、一番困っている赤ちゃんのおむつやミルクを届けようと、震災の10日後、自ら現地に向かいました。(物資を送ろうと思って色々と聞いて回ったが、そこまで届くかわからない、と言われたそうです。じゃあ、自分で行こうって。すごいです、この行動力。)

津波の後に残った水と瓦礫の間を抜けて、現地に向かう中で目にした光景は、あまりにも酷かった。特に女川地区は想像をはるかに超えるものだったそうです。

その体験から、今この地で「何か自分たちにできること」がスタートしました。

まずは、被災地で一番困ったという携帯電話の電源確保の話を聞き、現場に行く際に積んでいる発電機を、会社に戻ったらすぐに充電するようにしました。何かあった時に、近所の人が使えるようにです。

そして昨年、社屋増築の際に、災害対策施設を完備。それは、会社裏の駐車場にありました。

パッと見ではわかりませんね。 結論から言うと、

災害が起きて電気もガスも水道も使えない時に、近所の人がココに来れば、水が飲めて、充電できて、料理が作れて、トイレもあって、夜でも明るい、そんな嬉しい施設なんです。

上の写真がバルク貯槽システムといって、ガスを燃料に下写真の発電設備と連動して電気を作ります。その電気が、社屋2階の灯りをつけ、夜でも駐車場を明るくします。

馬渕社長いわく、「暗闇のなか不安でいっぱいの時一番大切なのは、少しでも明るいところに人が集まり寄り添うこと」

貯水タンクには、なんと10tの水が。トイレの水にも使用。トイレは、ここ以外にも、駐車場通路に、下水に繋がる口を設けているから、非常用トイレとワンルームテントをセットにすれば、簡易トイレになるとのこと。トイレ、大事ですよね。

炊事場や炊き出しの道具も揃えてあり、4月には近所の子供たちを集めて、炊き出しを計画中。

災害対策車のトラックにも、1.5tの水と発電機(3日は持つ)を搭載。

場所や被害の程度にもよるけど、今までの経験から、3~5日我慢できれば何とか復旧してくる、とのこと。

なぜ、ここまでやるのか?

自分でもよくわからない。補助金も多少出るけど、ほとんど持ち出しだからね。」って、笑う馬渕社長。

でも、東北を見てなかったら、ここまではやらんかったかな~」とボソリ。

行動によってのみ状況は変わる。

そんな言葉がピッタリの馬渕社長でした。

帰りに、携帯用浄水器をいただきました。これで簡単に雨水も飲み水に変わるそうです。今度試してみよ。

取材協力/株式会社マブチ工業 http://mabuchik.com/

足下にのこる津波の跡 ―湖西市【おんやど白須賀】―

ハート防災ライターのです。

静岡県内の防災に関わる、ヒト・モノ・コトや歴史などをレポートすることとなりました。

防災素人の私で良いのか?ラーメンならまだしも?という自戒の念を抑えつつ、素人ならではの視点で、少しでも多くの人に響く情報が届けば幸いです。

第一回は、湖西市にある「おんやど白須賀」。

津波に関する資料が展示してあるという情報を元に、何のアポもあても無く、訪問してきました。

「おんやど白須賀」は、東海道宿駅開設400年を記念し、白須賀宿の歴史と文化に関する知識を広め、資料の保存と活用を目的に設置された白須賀宿歴史拠点施設です。

おんやど白須賀の紹介はこちら http://kosaicity.com/onyado.html

白須賀宿は元々、汐見坂(潮見坂)下の海岸沿いにあったのですが、宝永4年(1707年)の津波被害に宿場が全滅、今の坂上の台地へ移転したのです。

カメラをぶら下げたおっさんが何やらしているぞ?そんな不安を払拭すべく撮影許可をいただいた所、アポなしにも関わらず館長の森さんが親切に案内してくれました。

入り口から中庭を抜け、展示室に入ると正面一面に、津波の記録コーナーがあります。

まず、目を引くのが、何か土の塊のようなもの。なんだ、これは?

2001年の道の駅建設の時に発見された土層を剥ぎ取ったもので、過去の津波の跡がわかるそうです。

1498年、1606年、1707年に起きた津波の爪痕が土層という形で残っていたのです。近くで見ると、少し黒っぽく、土質が違うのが分かります。

白須賀を襲った地震、津波の年表を見ると、改めて

地震、津波は繰り返すもの

自然災害から逃げることはできない

ことを実感します。

1707年の津波による全壊の後も、1854年、1944年と大きな津波被害に遭っています。

特に、南海トラフで起きた地震が静岡県に大きな津波被害をもたらし、その周期を見てみると、これから50年の間に同規模の地震が来る可能性が大きいことを、歴史が教えてくれます。

遠州灘、東海道、旧白須賀宿跡の位置関係がわかる空撮写真

1707年の宝永地震の翌年に高台へ移転した

 

これらの資料から感じるものは人それぞれ違うと思いますが、

繰り返す地震・津波は、忘れたころにやってくる

自然には勝てない人間の弱さ

それでも復興しながら生き続ける人間の強さ

が、足下に残る土層から伝わってきました。

とりあえず、津波予報が入ったら、何は無くとも高台へ走れ。

津波は防げずとも、津波予測の技術は、100年前より進化しているようなので。

 

取材帰りに、潮見坂ポイントへ。

波の良い時には、大勢のサーファーで賑わうメジャーポイントのひとつ。

サイズ、波質が良ければ入ろうと思いましたが、諦めました。

津波の時は、どんなだったのだろう?

宿場を飲み込む波は想像できません。

津波注意の看板。

どんな注意をすればいいのでしょうか。